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寺崎弁護士の法律の窓川口事務所 協力弁護士 寺崎時史氏
part1 「営業職の成績不良を理由とする解雇は、どこまで認められるか」

 A社の就業規則には、「業務能力が著しく劣り、会社が就業に適さないと判断したときには会社は、当該従業員を解雇できる」との規定があります。
 神奈川エリアの販売を担当する営業職のBさんは、会社の立てた売上目標の89パーセントしか達成できませんでした。会計年度末を迎えてBさんは¥上司から退職を勧奨されています。上司は、Bさんが退職勧奨に応じなければ、解雇もあるとの口吻です。
 まず第1に考えることは、Bさんの成績が就業規則のいう「著しい能力欠如」という要件に該当するかです。
 会社の立てた売上目標に達成しなかったというだけでは、「著しい」能力欠如とはいえません。会社は、常に販売拡張を求めますので、アグレッシブな目標が従業員に与えられることが多いからです。また、目標に達しなかった要因は、従業員個人の能力だけではありません。商品の品質及び価格競争力、商品の特性とそれに対する地域性、競合商品・競合会社の存在、市場の飽和性、需要に対する当該会社の供給力などの要因もあります。
 仮に、A社が営業努力以外の要因も考慮した上で設定した目標値に達しなかったとしても、想定外の要因(例えば、商品が季節商品性の高い物で異常気象が続いた)もあります。約90パーセント目標を達成していれば会社に赤字を与えたとまではいえないでしょう。従って、Bさんを解雇することはできないと考えられます。会社は退職勧奨によって、Bさんを自己都合退職にしたいと考えているのです。

<次号に続く>


鉄道発祥の地「記念碑」

さらに明日の飛躍をもたらすことを希望するものであります。」と記されています。この時5月の鉄道開通は仮営業で正式営業は9月、横浜・新橋間で開通されました。
 同じく明治5年(1872)、まだ電気もなく暗い夜道だった開港したばかりの横浜の街に、日本で初のガス灯がともされました。高島はこの近代日本の象徴ともいえるガス灯設置に取り組んだ「横浜瓦斯会社」を設立。この会社はのちに横浜市瓦斯局となり現在の東京ガスにいたっています。
 当時ガス灯の設置は、この数年前から横浜住民から要望されていました。そこで高島はじめ横浜の富裕な商人達が連名でガス灯設置を神奈川県に申請し、設置に乗り出していましたが、横浜居留地(現在の中区山下町一帯)に住む外国人の中にもガス灯会社を作ろうとした者が出てきました。そこで日本人側は前途多難を思い、出願を取り止めます。しかし高島ひとりだけ「今この計画を止めれば、外国人にガス事業を独占されてしまう。これから大変な苦労があろうが、初志を貫きたい。」と決意。ガス灯建設事業に取り掛かります。フランス人技師プラグランを招き、まずガス工場を伊勢山の下の石炭倉庫跡(現在の中区花咲町本町小学校の地)に建てることを前提に、改めてガス灯建設を出願しました。神奈川県と外務省はどちらに免許を与えるか迷いましたが、結局、高島に交付。

こうしてイギリスのグラスゴーから輸入された柱と、日本人職人の手による灯具により完成した日本初のガス灯が、明治5年9月29日、神奈川県庁玄関および大江橋から馬車道・横浜本町通りにかけてともされました。ちなみに東京銀座・新橋にガス灯がともったのは明治7年。この工事も高島が施工しました。
 近年、横浜市の整備事業の一環として設置当時さながらのガス灯が、横浜馬車道通りに復活。夕暮れになると通り沿いのガス灯からこぼれる柔らかな光が文明開化当時の横浜の風景を彷彿させます。
 その後高島は40代半ばにして実業界を引退。実業界から身をひいた後「呑象」の号をもって易学に専念。明治19年(1886)「高島易断」を著します。開港後の横浜の歴史を振り返る時、実業家としての数々の功績が知られる高島嘉右衛門ですが、高島易断の創立者としての「高島呑象」はさらに著名であるかもしれません。
馬車道 復元されたガス灯前 晩年は日清戦争、日露戦争を予言。さらに明治42年(1909)親交の深かった伊藤博文の暗殺を予見し、伊藤博文に満州行きの中止を懇請したといいます。(満州ハルピン駅で凶弾に倒れる)実業家として多くの事業に取り組み、横浜の産業や都市形成に尽力。大正3年(1914)83歳で没しています。(菅原)


<参考にした資料> 参考横浜市HP みなとみらい線HP 相鉄グループHP


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