安政6年(1859)横浜港開港以来、横浜は文明開化の地として外国からさまざまな文化が流れ込んできました。「アイスクリーム」「ビール」「灯台」「西洋式公園」「街路樹」「テニス」「君が代」そして「ガス灯」「鉄道」など。そのためか横浜中心部には「○○発祥の地」という記念碑が多く目につきます。
高島嘉右衛門という人は「ハマの恩人」といわれ、その後の発展に大きく貢献したといえる鉄道用地の埋立事業や開港後の横浜でのガス灯設置のほか水道・電気事業、高島学校の設立、易学の普及など文明開化的事業において数多くの功績を残した人物です。
天保3年(1832)、江戸三十間掘町(現東京都中央区銀座)の材木商・建築請負業の子として誕生。5歳の頃から寺小屋で学ぶほか、幼少の頃より両親から中国古典を習い素読によって勉強をしていました。14歳の頃、父の営む材木商兼建築請負業、南部藩製鉄事業に従事するようになります。
17歳にして父の死去により家督を継ぎ、安政6年(1859)5カ国通商条約締結で開港に湧く横浜本町に材木店を出店しましたが、小判の密売事件にかかわり投獄。約6年間獄中にある間易経を修得し、のちの「高島易断」を広める素地を作りました。
出獄後、横浜で材木商兼建築請負業として再出発。住宅や公使館等を建設し始め、実業家としての頭角をあらわしていきます。
材木・生糸の取引をはじめとして高島の事業は多岐に及びます。高島学校を設立し教育事業に尽力する一方、 |
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日本発の様式ホテル「高島屋」(現在のデパート高島屋とは無関係)を開業、洋式劇場であった港座の経営まで行っていました。
高島の多くの事業の中でも代表的なものが、鉄道用地の埋立事業です。
当時今の横浜駅と桜木町駅間は入江があって大きく迂回しなければなりませんでした。
入江を埋め立てれば鉄道を最短距離で通すことができ、用地買収の手間が省けます。そこで鉄道を通すために湾の部分を埋め立てる計画が浮上。高島は鉄道・国道用地の埋立てを請け負い、神奈川から横浜への湾の入口部分を幅63m、長さ1,400mにわたる築堤を造成。ショートカットするように埋め立て、当時としては最新式の蒸気泥揚機などを用い鉄道線路を敷設する工事を135日で完成させました。これにより明治5年(1872)横浜(現桜木町駅)から新橋(現汐留)間に鉄道が開通。この埋立地は高島の名から「高島町」と名づけられました。
現在の「高島町」という地名、みなとみらい線「新高島駅」は高島嘉右衛門の高島から由来しています。
そして平成22年(2010)、新高島駅前みなとみらい21中央地区に日産自動車の本社機能が移転予定。横浜の地域経済や街の一層の発展が期待されています。
JR京浜東北線桜木町駅近くに「鉄道発祥の地」の碑があります。碑には「明治5年(1872)旧暦5月7日、この場所にあった横浜ステーションと品川ステーションの間で開通し、その営業を開始しました。わたしどもは、当時の人の気概と努力をたたえ、このことを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、
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